コラム

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ひそかな職場恋愛の思い出 戦時中の大学病院で みんなのお宝写真館(22)

いずれも、1944(昭和19)年ごろに東京帝大付属医院の放射線科内で撮影された、英子さんと庚二さん。背後には放射線治療器も見える。

輝いていた75年前の私

75年前のアルバムに、ひそかな職場恋愛の思い出が詰まっていた。舞台は戦時下の大学病院。食糧難の中、医師や看護師らが畑仕事に精を出す姿も写真に残されていた。

アルバムの持ち主は、東京都板橋区の桧山英子(ひでこ)さん(93)。長男の幹人さん(56)が「家族の生きた証しを残したい」と、当サービスでアルバム6冊分をデジタル化した。

その中に、英子さんと夫・庚二(こうじ)さんの出会いの場となった、戦時中の東京帝大医学部付属医院(東京帝大病院)の写真が数十枚含まれていた。

看護師だった英子さんは、放射線技師の庚二さんと1944(昭和19)年春に知り合う。庚二さんはカメラが趣味で、院内の様子を多く撮影していた。中には、のちに医学部長となり、日本の放射線医学の父とも称された中泉正徳(なかいずみ・まさのり)教授が、長靴で敷地内の畑に立つ姿もあった。

帝大病院を前身とする東大病院のパブリック・リレーションセンターによると、戦時中、放射線科があった内科研究棟の周辺に畑があったという話は聞くものの、詳しい記録は残っていないという。英子さんによると、青菜系の野菜を育て、職員らがスープに入れて食べていたそうだ。

英子さんが看護師を志したきっかけは、父の死だった。杉並区生まれの英子さんは、13歳のときに官僚だった父を病気で亡くす。身を寄せた親戚宅では肩身が狭く、寮があった帝大病院の看護学科を受験。無事合格して親戚宅を出た。

看護師として初めての職場が放射線科だった。庚二さんからアプローチを受けた英子さん。「優しくて二枚目だったので」と交際を始めた。アルバムには、同科内でのツーショット写真も。戦況の悪化が深刻で、自由な男女交際に厳しい目も向けられた時期。交際を知るのは、2人の写真を撮った同僚らごくわずかだったという。

庚二さんは45年春に召集され、終戦から1カ月で復員。2人は47年に結婚した。
その後、庚二さんは病院を辞め、燃料販売業に転じる。英子さんも看護師を辞めて事業を支え、56年には板橋区に店を構えるまでになった。
「店が成功したのは良かったけれど、初めは慣れない仕事でつらいことばかりでした」と英子さん。

燃料店は96年まで続け、庚二さんは2016年、90歳で他界した。闘病中の枕元には、この英子さんとのツーショット写真があったという。

英子さんは「振り返ると、帝大病院のころが一番輝いていましたね」と話す。「敗戦でどうなるか不安な中、夫が復員したときの喜びも忘れられません」

長靴姿で敷地内の畑に立つ、放射線科の中泉正徳教授(右)。手書きのメモは庚二さんによるもの=1944年、東京帝大病院で

 

敷地内の畑で農具を手にする放射線科の同僚たち=1944年、東京帝大病院で

 

開業したばかりの燃料店前での記念写真。前列中央が庚二さん、英子さん夫妻。右のオート三輪が時代を感じさせる=1956年、東京都板橋区で

 

75年前のアルバムを広げて思い出を語る桧山英子さん=2019年8月、東京都板橋区の自宅で

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